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歴史・文化・芸術

源平合戦古戦場

合戦の歴史

一般的に「源平合戦」や「源平の戦い」と呼ばれている「治承・寿永の乱」は、平安時代末期、1180年から1185年の6年間に渡って日本各地で繰り広げられた、源氏と平氏による戦いです。この戦いは、古代最後、中世最初の内乱で、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に始まりました。当時、平清盛を中心とする平氏が政権を掌握していましたが、以仁王の呼びかけにより各地の武士が打倒平氏のために挙兵。そして、山口県の壇ノ浦で平氏を滅ぼします。その時に源氏側で指揮を務め、活躍したのが源頼朝や源義経です。
源平合戦の大きな舞台の一つである「屋島の戦い」は、戦いの晩年の1185年に起きました。一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、讃岐国屋島へ逃げて本拠を構え、海からの攻撃に備えて陣を構えます。一方、源義経が率いる源氏軍は軍船を組み、平氏を追って暴風雨の中を出港。大阪の摂津から徳島の小松島まで、わずか4時間で瀬戸内海を渡ると、そこから陸を伝って屋島へ。そして2月19日の早朝に義経軍は二手に分かれて奇襲を仕掛けます。海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、不意を突かれ、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ兵を後退させますが、やがて反撃。その際、扇の的や弓流しなどのエピソードが生まれました。
屋島の戦いは、結局、源氏側の梶原景時の大軍が迫り、平氏軍は、屋島を追われることに。山口県下関市の彦島へ逃げ落ちます。

もっと知りたい!(外部リンク)

源平屋島合戦 義経 讃岐を駆ける
http://www.e-yashima.jp/yoshitune/

赤牛崎
源氏軍が赤牛を海に放ったことから命名。 源平合戦が行われたときは島だった屋島。容易に海を渡ることができなかったため、安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を知り屋島へ上陸したそうです。その伝説にちなんで名付けられました。

安徳天皇社
幼帝・安徳天皇を祀る行宮跡。 一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃げ込んだ平家の総大将・平宗盛が建立した、幼帝・安徳天皇の行宮跡。安徳天皇は、わずか6歳で崩御。その後、同場所は、安徳天皇を祀る霊所になりました。境内の奥には、屋島の合戦で散った平家方の武士も供養されています。

菊王丸の墓
平家の若い侍、菊王丸の墓。 教経の強弓に倒れた佐藤継信の首をとりに行くも継信の弟・忠信に射倒された菊王丸。
主君・教経がその死を憐れんでこの地に葬ったといわれています。

佐藤継信の碑
源義経の身代わりになった家臣を顕彰。 屋島檀ノ浦における平氏との戦いで、源義経の矢面に立ち、身代わりとなって忠死した佐藤継信。武士道の鏡である継信を広く世人に知らせようと、初代高松藩主の松平頼重が1643年に建立しました。

駒立岩
那須与一が弓矢を放つ際、足場を築いた場所。 那須与一は、海の中にあったこの岩まで馬を進めて足場を定め、波に揺れ動く船上の扇の的を見事に射落としました。

祈り岩
那須与一が射落としの成功を願った岩。 那須与一が扇の的を射るとき、「南無八幡大菩薩、わけても私の生れた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈りを捧げた場所。那須与一は、ここから駒立岩へと向かいました。

景清錣引伝説
豪壮な源平武士の一騎打ち。 平家で一番、豪傑といわれている悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎が一騎打ちした場所。逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣を引きちぎったそうです。景清の腕力と十郎の首の強さを物語るエピソードになっています。

洲崎寺
義経軍の負傷兵が運ばれた空海建立の古刹。 大同年間(806年~810年)に空海が創建したと伝えられる古刹。源平合戦の際は、義経軍が負傷した兵を運んだとされています。戦死した佐藤継信も本堂の扉に乗せられ、運ばれたそうです。

義経弓流し跡
義経が弓を海に落とした場所。 合戦当時、遠浅の海岸だった同場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げているとき、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家に笑われないために、危険を承知で必死に落とした弓を拾ったそうです。

総門跡
松平頼重が蘇らせた平家の守り門。 平家が安徳天皇を奉じて六万寺を行在所としていた頃、海辺の防衛に備えて守り門を築きました。現在に残る衡門は、合戦の遺構を後世に伝えようと初代の高松藩主・松平頼重が再建したものです。

射落畠
源氏の名武将、佐藤継信の殉職の地。 源氏軍の四天王に数えられる佐藤継信が、大将の義経をかばって殉職した激戦地。継信の子孫が昭和6年に建てた石碑が残り、「胸板をすえて忠義の的に立ち」の文字が刻まれています。

佐藤継信の墓
大将を守った忠義の武士を称えて。 源義経の身代わりとなって倒れた佐藤継信の墓。1643年に初代高松藩主である松平頼重が新しく墓石を築き、継信の忠死を称えました。1931年には、継信の子孫が墓地の大改修を実施。現在の墓地公園に整備しました。

大夫黒の墓
義経が一ノ谷の合戦で乗った名馬の墓。 大夫黒とは、義経が後白河法皇から賜った名馬。一ノ谷の合戦の「鵯越えの逆落とし」で乗馬しました。佐藤継信の供養の礼に志度寺の覚阿上人に贈り、死後は継信のそばに埋葬されたと伝わります。

長刀泉
弁慶が長刀で掘り上げた井戸の跡。 兵士たちの炊事用水を確保するために、弁慶が長刀を使って井戸を掘ったと伝わる場所。合戦当時、この辺りは海で水がよくなかったために掘り上げたそうです。付近には、掘り出された石も残っています。

菜切地蔵
弁慶が地蔵の背中をまな板にして料理。 合戦時、炊事をする際にまな板がなかったため、弁慶がこちらの地蔵の背中をまな板代わりにして野菜の汁を作ったそう。今なお、その時の刀痕が残っていると言われています。

義経鞍掛松
義経が鞍を掛けて一休みした松。 1185年、平家を追った義経が徳島の勝浦から大坂峠を越えて高松に入り、屋島を目前にこちらの場所で一休みしたそうです。義経は、聳える松に鞍を掛けて休息したとのこと。現在も何代目かの幼松が植わります。

相引川
両軍が引き分けたことから名前に。 屋島の南側を東西に流れる河川。源平両軍が激闘を繰り広げて引き分けた場所にちなみ、命名されたそうです。また、河川としては珍しく両端に河口が存在。そのため、両方向に潮が引くことから名付けられたという説もあります。

獅子の霊巌
源氏の勝利にちなんだ、かわらけ投げが楽しめる展望台。 談古嶺、遊鶴亭と並ぶ屋島三大展望台の一つ。戦に勝った源氏が陣笠を投げて勝鬨をあげた伝説にちなみ、小さい皿状の土器を展望台から投げる「かわらけ投げ」が楽しめます。展望台の下に、海に向かって吠えているような獅子そっくりの岩があることから、その名が付けられました。

瓜生が丘
源氏が陣を敷いたゆかりの地。 屋島にいる平氏を攻めるために、源氏が本陣を置いた場所。付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。

船隠し
平家が源氏の来襲に備え、軍船を隠した入り江。 屋島の対岸に位置する五剣山の西の麓にある入り江。合戦の際、平家は源氏が必ず海から攻めてくると予想し、こちらの場所に軍船を隠していたそうです。1183年から1年半、平家の本陣があったと伝えられています。

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